北海道上士幌出身のみなさんへ 駒ヶ嶺 泰秀
私の家内も上士幌町出身でした。元十勝バス車庫隣り、高橋旅館のま向い、川村建設
(現社長の妹)です。
昭和41年(22歳)で上京し私と家庭を持ちましたが、一昨年癌の病に倒れ、闘病療養の
甲斐もなく、丸一年目に亡くなりました。
57歳でした。
家内の生涯は故郷をこよなく恋い慕い、紙粘土人形づくりに没頭し、(“群炎”会員として
毎年春と秋に上野の都立美術館に出展、銀座松屋・池袋のシャンシャインビルの美術展
等に出品しました)、最後の一年は生きることと死ぬことを日々見つめ、「一日が千日にも
万日にも思われる」と日記に書き残し、また私が「体にさわるからもう止めて休め」と言い
ますと「時間がないから」と言って深夜までアトリエで人形を作っていたりし、最後の四十日
はホスピスに身を委ね「あと何日生きたれるの?」と私に問いつつ、鎮痛剤を上手に使っ
てくれる医師と看護婦(師)さんたちに「ありがとう、ありがとう」と感謝し手を合わせてお礼
を言う日々を送って、苦しむことなくあの世へ旅たちました。
突然襲ってきた腹痛を家内は癌に違いないと確信に近い自覚で受け止め、最初から末
期癌であることを知り、亡くなるまでの一年は大変劇的であり感動的でさえありました。
家内は結婚以来折に触れて私に、「文章を書くことが好きなんだから、本を書けば……」
と言い続けました。その家内の進言を家内の闘病と死をもって本にすることになったのは
何とも皮肉なことですが、考えようによっては家内が自分の死を代償にして私に本をつく
らせた、とも言えそうです。
みごとに生きて、みごとに死んでいってくれました。『倶会一処』はそのすべての記録です。
・夢に来て使いに出でし亡き妻が帰り来ざりき 何処に行きしか
愈々大寒の砌り、ご自愛の上お過ごし下さい。
平成16年1月22日
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昨年の「第20回上士幌の集い」の案内の出欠の返事に「駒ヶ嶺(川村)恵子は昨年5月に
死亡しました」とご主人から頂きました。
そして補足として“家内の1周忌を迎えるに当たり、終末医療から始まった家内との癌との闘
いを、手術・抗癌剤・メシマコブ・ホスピスそして死への過程を『倶会一処』という本にして今、
書店に陳列しています。癌死を受容して明るく前向きに生き感動的に死んでいってくれた妻を
描ききりました。お家族に癌を患っている方がいらしたら是非この本をお読み頂きたいと思って
います”と・・・。
そのことが気になりながらも私は自分の忙しさにかまけていましたが先日やっと電話をして、
ご主人とお話をすることが出来ました。
そしてお便りと、恵子さんとの写真、また恵子さんが作っていたという紙粘土のお人形の写真を
送ってくださいましたのでご紹介します。
蝋梅(ろうばい)向島百花園にて
2004.1.24
『倶会一処』 定価1,000円 (文芸社刊) 問い合わせ先03(5369)2299 又は書店にて
また文芸社のHPからも購入できるようです。
「倶会一処」(くえいっしょ)とは@多くの人々がともに一処に集まりあうこと
A阿弥陀の浄土に往生して、浄土の人々とともに一処に会同
すること(広辞苑)
と本の最初のページに書いてあります。
ご主人が恵子さんへ思う気持ちが込められているのでしょうか。
また本の帯に「この夫なくして末期癌の妻は死出の旅路を歩むことは出来なかったろう。
この妻なくして夫は読む人の胸揺るがすこの記録を書くことは出来なかったろう。
そして読者はこの夫妻が人生最大の困難をどのように歩んだかを知ったとき
人生で一番大事なものは愛なのだと実感するだろう」聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長
の山崎章郎さんの言葉が書かれています。これらのことも多くの書評、そして新聞にも取り
上げられたようです。
泰秀さんは高校の国語の先生でしたが定年を待たずに早めに退職されこの本の執筆に専念
されたようです。中学生の頃から俳句、短歌を詠まれていたとか、その時々の気持ちを詠まれ
た短歌が沢山載っています。
読んでいてついつい、涙が流れてしまうのです。
幸せに思いっきり生きた恵子さんが見えます。
癌の告知を受けてから上士幌でのクラス会に参加されたそうです。
同級生の稲葉サチ子さんが近いうちにその時のご様子や写真を送って下さる事になりました。
上士幌をこよなく愛された恵子さんを暖かく優しく見守ってくださった泰秀さん、ありがとうござ
いました。
悲しみながらも暖かい気持ちを分けて頂きました。合掌
青梅梅林にて(2ヶ月前)
房総半島 白浜 花園 (2ヵ月半前)
いわき市鵜ノ子岬で(亡くなる1年半前)
ご夫妻の思い出の写真