2007.11.13

ブラックベリー
 −上士幌にてー

今村 日出男さんから・・・小さい頃の思い出を投稿していただきました。

 11月10日の日、今井さんたちの上士幌中学校同期会は
品川プリンスホテルにて集合。
同じ日、そのプリンスホテルで「上士幌町東京会の集い」が
開催されていました。
同期会のメンバーには「集い」に参加されている山田忠雄さん、
そして、前回の同期会を紹介してくださった稲葉さんもいらっしゃ
いました。
その同期会の仲間が「集い」に顔を出してくださり、今は恵庭市
にお住まいの今井さんがこの「思い出」を、託してくださいました。

          
                「幸夫君」          今村 日出男

昨日、不思議な夢を見た。

 みなさん、馬場 幸夫くんという名前を記憶していますでしょうか?
 営林署のずっと奥のほうで農家をしている子だった。

自分たちが、小学校6年生の頃で死ということなど、全く現実感の無いときに彼は突然自分たちの
前から、去っていったのだった。
 心臓病と聞いた。彼の葬式に出席し、お棺の中に、指を組んで白い衣装を着て寝ていた彼の姿
が一週間ほど何をするときも、目から離れなかったことを覚えている。
 人が死ぬということが、全く信じることが出来がたい自分であった。
まして、元気でいて、彼が病気であることなど知らなかったのだった。
 彼は、ソフトボールをしていたとき、外野飛球を受けるときに、あのキンキンした声で「オーライ、
オーライ」と言いながら、右手を顔の横で、クルクル回してキャッチするのだった。
「こんなの余裕だよ」という彼の自信を表していたのだと思う。
 50年たった今でも、彼のキイの高いあの声がはっきり甦る。
自分の家からは遠かったので、あまり彼の家まで遊びに行ったことはなかった。
 家が近かったのは営林署にいた、内藤君(おいら、と言うあだ名だった)、高井君だったろうか。
高井君にしても結構遠かった。
 有り余る時間が当時の俺たちにはあった。太陽の光も、木々の緑も、鳥や虫たち、川の魚も
みんな仲間だった。
塾もない、勉強に追われることもない、自由な時間を持っていた。

 さて、不思議な夢のことを話そう。
夢に馬場君の子供さんが出てきたのだ。それは、当時の彼の姿そのものだった。
なぜか分からないが、上士幌高校の野球の応援の風景だった。馬場君が応援団の一員として
応援していた。(小学生そのままである)
 おとなしくてシャイな彼の子供だから、声が小さめで、恥ずかしそうにしてやっていた。
その馬場君に向かって自分は(自分は大人なのである)「馬場君、そんな小さな声では聞こえ
ないよ」と注意しているのだ。
 
すると彼は、「お父さんは、どんな人だったの?」と私に訊いてきて、寂しそうにうつむいたのだった。
「お父さんは、やさしくて、あかるいひとだったよ」と答えたところで、目が覚めた。
 なんだか、不思議な気がした。クラス会が近々あるという興奮が見させたのか、それぞれ同級生
が人生を歩み、子供や孫もいる世代になっているが、若くして世を去り自分の子供を見ることがな
かった彼の無念さ、寂しさが見させた夢だったのか。
 セピア色の小学時代の学級写真には、馬場君が満面の笑顔で写っている。
おそらく、あのころの彼を見送ったご両親も、鬼籍に入られているのだろうか。

「コロペタン」
 中学生の頃、コロペタンという沢の川に清水谷の駅の裏から入っていって釣りをした。
岩魚がどんどん釣れた。水量もかなりあった川であった。あれは当然のことながら、ダムが
出来て水が減ってしまっているのだろう。今はどうなっているのか。

「水天狗」(「水天宮」なのかもしれない) 
 清水谷の村上君の家から国道を渡って、音更川に入っていった、川のそばの岩の上に小さい祠が
あってとても神秘的な思いに打たれたものだった。
水量が多く、流送が行われていた頃に安全を願って作られたものではないか、と村上君に聞いたよ
うな気がする高校生になってから村上君と行ってみたのだった。
今はあの道も無いだろうし、あの岩は、祠はどうなっているのだろうか。

「粘土川」
熊谷君の家の近くの道を音更川に入っていった川である。夏休みになると、子供等の遊び場だった。
山女魚もいた。ドンコとよんだ河鹿もいた。大きな河鹿が垂らした糸に来るとドキドキしたのだった。
 ガキ大将がいてグループを率いて連れて行ったものだ。
今はどうなっているのだろう。あの道はもうないのだろう。

「旧上士幌橋」 
 小学生の頃、毎日のように、「先生、川に行こう」と佐々木先生にねだって行ったあの学校の裏から
松本先生のうちのそばを通り坂を下って行ったあの上士幌橋の痕跡でもあれば見たいと思い、何年か
前に行ってみたが、分からなかった。
 あの橋を渡って、上音更に抜ける細い道もあったが、それも見当たらなかった。
昔は、音更川のほかにもう1本川があってそこにも山女魚などがいたもだ。
中3のときに、森屋君、真野君(ペケ)と酒田君(のっぺ)とそこの木の橋で撮った写真があった。

上音更に行く道の、崖を登っていく、すぐ下にも、水量豊かな川があった。今は跡形も無い。
あそこにも山女魚などいたはずである。ダムが出来た後、川はみごとに消えていったのだ。

「昔の小道は」 
 その1
保科君の家の裏の道で庭ぼうきで卓球ので、野球をして遊んだ。赤間さん、西川さんの前で福本薬局
裏、吉田パーマ屋さん、加藤さん、片原さんらの裏でもあった。少し行くと、竹屋さんがあり、線路につな
がっていた。線路付近は、家常さん、寺門さんであった。10年ほど前、懐かしくて、その裏道を訪ねてみ
た。なんと、竹屋さんの裏が昔のまま残っていたのには感動した。裏窓に木製の桟があり子供の頃、の
ぞいたのと同じ状態で残っていた。中には、色々なものが出窓にあった。子供の頃、とても謎めいていて
神秘的だった。のぞいて怒られたりした。

 その2
西君のお寺の横(道を挟んで向かいは保科君の爺ちゃんの畑と小屋などがあった)をまっすぐ進み、踏
切をわたり、細井さんや野口さんのそばを通り、高橋清正君の家までつながっている道は、もう無かった
ようにみえたが、どうなのだろうか。もうあの奥には誰も住んではいないのだろう。その奥から熊谷君の
家につながる道もあった。

 その3
こうきつ商店、(日野たばこ屋さん)国光アパートの間の通り、樋口写真屋さん、有沢呉服屋さん、清田
石炭屋さん、美賞堂時計屋さん(奥迫さん)、山中歯科医院、新富さん、坂田旅館の裏を通り(裏には畑
が広がっていた)、農協ストアー、中野仁司君の家の安兵衛につながっていた。
 加藤フードセンターの向かいのパチンコ屋の間を通り(物置小屋などがあった)、その道につながる道
があった。家と家の間で道とはいえないのかもしれないが、狭い通路で自分たちもあまり通ることは無い
ところだった。今はそこらの道はどうなっているのか。

 その4
元氏君の家の裏と榮や食堂、(元中村パチンコ、今は小野田花屋)、堀口商店、中田布団店、佐藤呉服店
(十勝花子の実家)の間にやはり細い道があった。元氏君の家の隣には、渡辺さんがいて、そこに今井
一男君が中学生の頃住んでいた。その道を進んでいくと、中村さんがあり、野村君がその隣辺りに住んで
いた。彼は中学校の野球部のエースだった。その一番奥の、川のほとりに保育園の先生の谷奥先生が
住んでいた。 一級後輩に娘さんがいて、かわいいからキュウーピーさんと呼ばれていたと思う。

「防空壕の跡」
 今の洞田さんの横辺りは、元は広い原っぱで、その側に防空壕があったのだった。ちょっと高く盛り上が
り、俺たちの背の小さいものは、その土が被り草が生えていた屋根には上れなくて残念だったことを覚え
ている。まさに、戦後が見事に残っていたのであった。
それがいつの頃、誰のよって、取り除かれたのか分からないが、中学生の頃はもう無かったと思う。
今の子供たちに見せてやりたいものであった。

「大蛇が出た」
 俺たち悪ガキにとっては、結構怖いおじさんに、石井肉屋の若いおじさんがいた。そこの牧草地で遊んで
いると、「コラー」と怒鳴られたものだ。西君の家の近くに線路の側が石井さんの牧草地だった。
 ある時、そこを通りかかったとき、その怖いおじさんが、凄くびっくりした様子で、「今、ここを大蛇が通って
行った」と話してくれた。
怖いのであまり近付かないおじさんが、声を向こうから掛けてきたのだ。1メートルほど伸びていた牧草が
蛇が走った跡のように倒れていたのだった。信じがたいような話であるが、まだあの頃は自然にも不思議
さや神秘性があったのではないか。

「白蛇が川を下った」
 上士幌橋の川を、白い蛇が凄い音を立てて下っていった。というのが、新聞に載ったことがあったと記憶
している。

「黒石トンネルの幽霊」
 トンネルの中に、大きな体のつるはしか何かを背負った人が出ると言う話があって、松井呉服点のおじさ
んがオートバイで帰ってくるときに乗られたと言う話を聞いた。
NHKのラジオでそのトンネルをアナウンサーが実況放送をするのを自分は聞いた。

「むささびがいた」
 町から萩が岡の方に向かっていった線路ぶちの松林で、「ムササビ」を見つけて、みんなで石を投げて
追い込んでいって、とうとう捕まえたことがあった。俺たちは、まだ下っ端の頃で、中川の信明さんらが
リーダーであったと思う。
町からそれ程離れていないところにそのような動物がいたのだ。
その頃は、夕方に神社に行けば「こうもり」が飛んでいたりしたものだ。
このごろ、だんだん見られなくなってきている「けら」もいっぱいいたものだ。
 保科君は鳥の巣を見つける名人だあった。線路を萩が岡のほうに向かって、巣を探しながら歩いていた
ものであった。薄緑色のヒバリの卵を見てわくわくしたものだった。

「泥水の川で泳いだ」
 今は水も無くなってしまっている街中のあの川の上の淀みで泳いだりした。それこそかきまぜたら泥水
であった。あんなところで泳いで、よく眼を悪くしなかったものだ。結構、小さな魚もいたと思う。
 街の中の橋のたもとに菊池鍛冶屋さん、浜谷時計屋さん、斎藤富子先生の家があった。向かい側に
石川呉服店、安田新聞屋、朝妻畳屋さん(舞子さんの家)、米倉精米所、山崎豆腐店、根本行政事務所
などがあった。
あの橋のふちの浅瀬で、今はもう見られないであろう、糸のように細くて長いクネクネした虫がいた。
自分らは「イトムシ」と呼んでいたが、本当の名前は知らない。汚い水の中にあのような気持ちが悪い
生き物が生存していた。今もどこかで生きているのだろうか。とっくに絶滅しているのだろうか。
そのような生き物がどれほどいたことだろう。ある意味ではそれは衛生環境の向上であり生活の進歩
だったのどろう。
 そんな汚い水を手で触ってもろくに手も洗わないで病気にもよくならなかったと思う。

「DDTを頭から」
 今なら大騒ぎだろうが、シラミが誰にもたかっていた頃、学校でみんな並んで頭にそして背中にDDTの
粉を入れられたものだった。

「懐かしい故郷の音」
 朝、6時には神社から太鼓の音が毎日聞こえてきた。今も聞こえてきているのだろうか。
あの神主さんは元気でいられるのだろうか。跡継ぎがあの音を響かせているのだろうか。
 そして、家がボロだったから聞こえたのかもしれないが、毎夜、音更川の流れの音が静かな中に聞こえ
てきたものだった。皆さんの家には聞こえていたのだろうか。 
 それだけ、夜になると余計な音が無く町中が静かだったと言える。でも、よく離れた所まで響いてきたも
のだと思う。今のような機密性の高い家なら音が入ってこないだろう。
また、はっきり今でも覚えているが、松井呉服店のおじさんが、外車のオートバイを持っていて、帯広へ
行くというのを見ていたことがある。町に雑音などないから、おじさんのバイクの爆音が小学校の角を曲
がって行くまで、ボン、ボンと聞こえていたものだ。
 朝、眼が覚めると馬車の車輪が小さな砂利を踏み潰すジャリジャリ、カラカラという音が聞こえたものだ。
馬が農家の生活の大きな部分を担っていた時代だった。

「春の風物詩」
 春になり雪解けが進むと、かならず何日か道路の縁が川のようになったものだ。
線路ぶちの低いところは深い池のようなものが出来た。おそらく落ちたら小さい子供は溺れる深さがあった
と思う。そこに、筏を作って勇気がある子供がいたのだ。もちろん俺らのようなガキは参加できなかった。
3日か4日位の池だったろうか。
 あの黄色い色の十勝バスが春になるとかならず何日か運休したものだ。それは道路がフワフワに膿んで
車が埋まってしまうからだった。これも3日かそこらあったのだろうか。
今のように舗装道路で年中無休で走っている時代と違ってなんとも長閑なことであった。あれは砂利などを
埋め込んで手当てをしていたのだろうか。自然に時を待ったのだろうか。
 フワフワの地面に乗って、飛び跳ねたりしてそのクッションを楽しんだものだ。
雪が解け、地面が出ると、釘刺し、ビー玉、パッチ、野球いろいろ外での遊びが出来た。

「あのときの山火事は」
 中3の秋、たぶん、お祭りの日だったと思う。D君、S君と俺が神社の奥の草原に寝そべって話をしていた。
たぶん神社の裏のほうには人が沢山いたから、ばんば競争か何かのイベントがあったのではないか。
S君がなんとなく持っていたマッチをすったのをポイと投げた。すると、その時フーと、風が吹いた。一瞬の
うちにフワーッと枯草に火が広がってとても速くて、アッと言う間に燃えていった。上着を脱いで叩いたって
間に合わない、大騒ぎになった。あの奥の林までいくのではないかとみんな、心配したがどうやらそこまで
いかずに消し止めた。消防もきたと思う。大事件であった。
 その後の処理がどうなったのか、あまり記憶していない。犯人は分かったのか、自然発火で、S君は発見
して火を消してヒーローだったのか分からない。正直に自分ですと名乗ったのかは分からない。このことは
自分の教育に活かしたものだ。枯草に火がついて風が吹くと、
目にも留まらぬ速さで広がるので決して野原でマッチをいたずらをしてはならない。子供たちには凄く説得力
があったと思う。

「野球が生きた」
 6年生の夏、音更川で遊んでいたら、サイレンがなり、煙が見えた。山火事である。青山木工場だった。
野原を越え、畑を突き抜け、走っていった途中で、秋場大工さんの家に来たとき、「たすけてー」という叫び
声が聞こえた。見ると夏の日差しの乾いて反った柾が飛んできた火の粉で火が付いて、2、3ヶ所くすぶっ
ていた。お姉さんが2階の屋根に上って叫んでいたのだった。水をバケツに手渡すなんて間に合う話でない。
たぶん一緒にいたのは吉田志津夫さんだったと思う。下に干してる洗濯物を水で濡らして屋根にどんどん
投げてやって、やっと火を消し止めたのだった。
咄嗟によく思いついたと自分でも感心した。あのころ、森屋君、内海さん、高橋 登さんの家も近くだった。
みなさん働いておられ、家は留守だったと思う。そこでまた火事が起これば、おそらく、あの並びは全部燃
える大火事になったのではなかったろうか。木造の柾屋根の時代だから火の粉がきたら、焚き付けのよう
に燃えたはずである。
 野球を毎日のようにして遊んだことが2階まで洗濯物をぶんなげるのに役に立ったのだ。

今村 日出男さん